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渇いた町とインカコーラ - Peru vol.2 -


そこは、乾いた町だった。舗装の行き届いていない車道を車が通るたびに、乾燥した砂埃が宙を舞って、黄色い太陽が空気中の潤いを奪っていく。

名前も覚えていないその小さな町は、僕がペルーに入国して、最初に滞在した場所だった。この町が、乾燥した雰囲気を持っているのには、その気候以外にも理由があった。多くの家々はレンガで造られていて、遠くに望むアンデスの山々も、そのレンガと同じように赤茶けていたのだ。

「渇いた国」それが、ペルーに抱いた最初の印象だ。隣接するエクアドルから来て、景色以外に何が変わったのかと問われると、少し答えに困る。話されている言葉はもちろん、人々の顔や体躯にも、決定的な違いは見られない。昼間から教会の入り口や周りに座り込んで、世間話に花を咲かせている若者を横目に、空腹だった僕は、小さな食堂に入った。スペイン語圏に入って数ヶ月。この頃になると、書いてあるメニューが、魚なのか肉なのか、辛いのか甘いのかといった簡単なことが、何となく分かるようになっていた。とはいっても、初めての国の初めての食堂で、何を頼んでいいのか迷っいると、ちょうど「今日のメニュー」のようなものがあったので、それを頼むことにした。

夕食前の微妙な時間帯だったので、テーブルが5、6台の小さな店内には、僕の他に2、3組の客しかいなかった。ふと、食事をしている客のテーブルを見ると、1.5リットル位の大きなペットボトルが目に付いた。中には、いかにも化学的な着色料で色付けされた、鮮やかな黄色い液体が入っている。ペットボトル上部に巻かれた青いラベルに、「INCA KOLA」という文字が見えた。そう、黄金色に輝くその液体は、コカコーラやペプシを抜いて、ペルーで一番支持されているという、インカコーラだったのだ。

今思えば、エクアドルにいた頃も、時折インカコーラを目にする機会はあったけれど、その時は特に気にしていなかったし、こうして食堂で出されることもなかった。後で分かることなのだけど、ペルーでは、どこの町に行っても、必ずこのインカコーラがあった。スーパーや食堂はもちろん、小さな商店にも常に常備されていた。とりわけペルー人は、食事の際にこの飲み物を供にすることが多いらしいことが、見ていて分かった。インカコーラの「インカ」とは、言わずもがな、あの「インカ帝国」である。そして、インカコーラのその輝く黄金色は、帝国のかつての繁栄を物語っているようでもあった。

出された食事を目の前にして、僕は少し驚いた。テーブルの上に並べられたのは、メインである魚料理に、ライス、そしてスープだった。主食、主菜、そしてスープ。お世辞にも綺麗とは言えない庶民的な食堂で、こんなにしっかりとした食事が提供されるとは思ってもみなかった。エクアドルの食堂では、ライスに主菜、そして付け合わせのプラタノが、ワンプレートに盛られていることが多かったので、その新鮮さはひとしおだった。中でも、スープの存在感が際立っていた。薄味ながらも、塩胡椒でしっかりと味が整えられ、ジャガイモやコーンのようなものが具沢山に入れられたスープを飲むと、その暖かさが全身を駆け巡り、乾いた町の空気にも、若干の潤いを与えるようだった。

帰り道、近くの商店で、早速インカコーラを買った。普通のコーラより甘みが強く、独特の香りが少し鼻につく。道を行き交う現地人に紛れて、この黄色い液体を、勢い良く体内に流し込む。そのチープな後味が口の中に残っていることに気付いた時、「今、自分はペルーに来たんだな」と改めて実感した。

小さな町にそぐわない、それなりに立派な教会の周りには、座り込み話をする人々が先刻よりも増えていた。その人数は、夜になるにつれて増えていくようだった。ふと頭上を見上げると、空には、満月になりきれない半端な月が、細長い雲の隙間から、怪しげに輝いていた。

翌朝、僕はこの町を出ることにした。そこから、ワンチャコという海岸沿いの町で数日を過ごし、その後、ワラスというトレッキングで有名らしい町で、同じく数日を過ごした。それらの場所に、何か特別な目的があったわけではない。ただ、リマとクスコを目指して南下していただけだ。リマは、南米を代表する大都市にして同国の首都であり、まずはそこに行かなければという思いがあった。そして、リマよりもさらに南に位置するクスコは、あのマチュピチュ観光の拠点にして、インカ帝国の首都であったという歴史ある町だ。

ワラスからリマまで、直通のバスがあるとのことで、そのために滞在していたワラスだった。四方を雪化粧した山々に囲まれたこの町には、トレッキングのツアーを取り扱っている旅行会社が多数あり、その鋭角に尖った山の頂に夕日が反射して、斜面がオレンジやピンク色に染まる様は、まるでネパールのポカラにいるようだった。トレッキング目当ての観光客が集まることから、町には洋食のレストランが多く、パスタやピザを取り扱う店が多いのも、その思いを強くした。

ある日の夕方、小さなレストランに入って、ミートソースのパスタを注文したら、出てきたのは、茹ですぎてブヨブヨになった柔らかい麺に、レトルトのような味付けのソースがかけられたものだった。スーパーで材料を買ってきて、宿で自分で作ったものとさほど変わらない味に苦笑しながら、きっとこの店のシェフは、本物のパスタを食べたことがないのだろうなと、微笑ましい気持ちになった。

そして、リマに近づくにつれて、次第に寒さが増してきた。ここワラスでもそれは同じで、この町に到着した時、宿を斡旋する客引きの売り文句は、「ホットシャワー」が出ることだった。もっとも、その謳い文句に釣られて泊まった宿は、いくら蛇口をひねっても、冷たい水しか出てこなかったけれど。

ある朝、1日の始まりに向けて、活気立つ町の空気をひしひしと感じながら散歩していると、小さな屋台を見つけた。そこは、オレンジと柘榴をミックスさせたような見たことのない果物を絞ったジュースと、小さなパンを売っている屋台だった。屋台の前には、安っぽいビニール製の椅子が並べらていて、買ったものをその場で食べられるようになっている。なかなか盛況のようで、すでに数人の男性が飲み食べしながら談笑している姿が見えた。そのまま通り過ぎるのも勿体無いと思い、僕も、朝食代わりにその屋台でジュースを買ってみた。果実をほとんど手搾りにして提供されるそのジュースは、果実感が強く、ドロドロとしている。今まで味わったことのない味で、オレンジに少し苦味を加えたような、独特なものだった。

ジュースを飲んでいると、屋台で談笑していた一人の男性が話しかけてきた。

「日本人か?」

驚いた。中南米に入ってから、僕の容姿を見て、「チーノ」と言われることは散々あったけれど、ピンポイントで「日本人」かと尋ねられたことは、ほとんど記憶になかった。もしかすると、初めてだったかもしれない。その男性は、僕の答えを待つより先に、親指を上に立てて、

「フジモリ、フジモリ」

と言い出した。

「フジモリ、ブエノ フジモリ、ブエノ」

彼は笑顔で続けた。

フジモリとは、かつてペルーの大統領だった、日系ペルー人のフジモリ氏のことだ。かつての大統領が日系人だったことから、ここペルーでは「日本人」という存在が広く認識されているのだ。加えて、ここペルーは、南米ではブラジルに次いで、日本からの移民が多いことでも知られる。戦後の混乱の最中、職を求めた人々が、地球の裏側である南米大陸に移住したのだ。

-日系人-

その名前は、以前から知っていたけれど、初めてその存在を意識した瞬間だった。自分の中に、異なる二ヶ国のアイデンティティーが存在しているという不思議。それは、自分が意識するしないに関係なく、生まれた時には「事実」として、身体、そして心に備わっている。僕なんかが頭を捻ったところで、その実情は何も分からない。唯一分かるのは、そういう風に、自分の中の何かを背負って生きている人も、世界にはたくさんいるということだけだ。

ワラスの夕暮れはすごく綺麗で、時折、雲も山も、視界に入るもの全てが薄紅色に染まって、思わず立ち止まってしまう程だった。しかし、地元の人々は、そんな景色は特に珍しいことでもないらしく、立ち止まらずに黙々と歩いている。リマ行きのバスは、今晩発の予定だった。大きなバックパックを背負い、ピンクに染まる町を、ターミナルに向かいトボトボと歩いていく。でも、その柔らかな色が視界にあったのは一瞬で、すぐに上から黒い絵の具で塗りつぶしたかのごとく、辺りは闇に包まれた。暗闇の中をまばらな街灯を頼りに歩いていると、ふいに寒さが身に沁みてくる。それもそのはずだ。気がつけばもう6月で、南米は冬の始まりを迎えていた。

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