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クネイトラ - Syria vol.3 -

  • Ryusuke Nomura
  • 2013年7月27日
  • 読了時間: 5分

そこに行くことを決めたのは、2日前の夜のことだった。宿で知り合った日本人と話している時に、その場所の名前を知った。ガイドブックには、半ページのそのまた三分の一程度の大きさでしか紹介されていなかった、その土地の名は、シリアのハイライトとして、僕の胸に、鋭く、深く、刻まれることとなる。

土地の名は「クネイトラ」といい、イスラエルとレバノンの国境近くにあるそこは、過去の戦争でイスラエル軍により、破壊された町の名称である。

クネイトラは、街全体が、爆撃された当時のまま、保存されている。イスラエルへの当てつけか、「戦争」という負の記憶を、時の流れによって劣化させないためか、はたまたその両方か。1983年に生まれた僕は、戦争を体験したことはもちろん、身近なものとして考えたことすらなかった。体験するしないというのはともかく、考えたことがないというのは、「知ろう」としていなかった、僕自身にも問題があったのだと思う。戦争について、何か、考えるきっかけになればいいなという、いかいも正論めいた思いで、クネイトラに行くことを決めた。逆に言えば、僕には、その位の理由付けしかできなかった。

イスラエル、レバノン国境に近く、特にイスラエルとは緊張状態が保たれているため、クネイトラの町に入るには、国の許可証を取得する必要があった。ダマスカスの施設でその許可証を発行してもらい、翌朝、僕達はクネイトラに向けて出発した。

シリア人の日常が溢れる公共バスと、クネイトラ行きのミニバスを乗り継いで、2、3時間が過ぎただろうか。段々と、車道の両脇が寂しくなってきた。木々は枯れ、民家も姿を消してから、さらにしばらく走った所で、ミニバスが停車した。右斜め前方に、国境のイミグレーションのような、小さな小屋がある。どうやらそこが、クネイトラ観光を統括している事務局らしい。クネイトラ観光には、観光客一組につき、シリア軍のガイドが一人付くことになっている。それだけ、ほとんど当時のまま保管されている戦争の跡地を、外国人に公開するというのは、国としても、重大な決断だったに違いない。

クネイトラは、イスラエルとシリア、互いの国境に近く、軍事的に重要な役割を果たしてきたため、両国が戦争の度に奪っては奪い返すという、まさに悪循環に陥っていた。今のような廃墟になったのは、1973年に勃発した第四次中東戦争で、直近の6年間をイスラエル軍が占領していた所、シリア軍がそれを奪い返し、イスラエル軍が再度、奪還するために、街を砲撃したことに端を発する。その後、思惑通りクネイトラを奪還したイスラエル軍は、しかし、アメリカの介入によって、まもなくその土地をシリアに明け渡すことになる。そして、シリア領土のまま、破壊された町はそのままに、現在に至るというのが、クネイトラを簡潔に説明した時の答えと呼んで差し支えないだろう。

シリア軍のガイドが付いた僕たちは、破壊された町を、練り歩くことになった。ガイドが付くとは言っても、熱心に破壊された建造物の説明をするわけでもなく、どちらかというと、見張りのような意味合いが強いようだった。文字通り、粉々になった町は、あらゆる建造物が破壊し尽くされ、それでいて、微かに在りし日の面影を、絶妙に残した壊され方をしているものだから、見学する方としては、これほど胸に突き刺さるものはなかった。中央から真っ二つに崩れ落ちている民家の屋根、マシンガンの痕が蜂の巣のように残る病院の外壁、車道沿いの緑に所狭しとちりばめらている、破壊された家々の残骸……。 なるほど、ガイドの説明など必要ないはずだ。人種、国籍、宗教……洋の東西を問わず、この土地で起こったことを想像するのに、言葉は、あまり意味をなさないだろう。

シリアでは、「イスラエル」という言葉を発するだけで、警察に捕まってしまうという、嘘のような話を聞いたことがある。ここで目にした光景は、しかし、その嘘のような話をも信じさせてしまう程のインパクトがあった。「戦争」が、一般市民にもたらすものの多くが、そこには確かにあった。

戦争という言葉を知ったのは、いつだろうか。小学生の頃にはもう習っていたはずだから、少なくとも15年以上は経つことになる。でも、その言葉の持つ恐ろしさを、理解しないまま過ごしてきたのだと、実感した。百聞は一見にしかず。クネイトラでのこの悲しい事実を知ったところで、僕が何かをできるわけではないし、シリアとイスラエルの関係を改善する事など、誰をの手を持ってしても、不可能なのかもしれない。

見学を終えて、事務局に戻った僕達は、ダマスカス行きのミニバスが到着するまで、ストーブで暖をとりながら、待たせてもらえることになった。暖かいチャイも振る舞われ、寒さのおかげで、余計に美味しく感じたのを覚えている。事務局の中には、3、4人のシリア人兵士がおり、まるで町角のカフェにいるかのように、おしゃべりに花を咲かせていた。そこには、戦争による悲壮感は、全くと言っていい程感じられなかった。

そう、クネイトラが破壊されようとも、再建の目処が立たずとも、彼らの、シリア人の日常は続いていくのだ。それだけは、確かなことだ。彼らは、イスラエルが憎いだろう。憎くて仕方がないだろう。しかし、そう思いながらも、日常は続いていく。生きていかなければならない。そういった事実。その背後に見え隠れし、隙あらば、彼らを失意のどん底にたたき落とそうとする、「戦争」という事実。両方とも、変えることのできないものだ。僕が知ったのは、これが背中合わせで、シリア人の中に潜んでいるということ。そして、そこで彼ら、彼女らが、今日も生きているということ。

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