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to Machu Picchu - Peru vol.5 -


宿まで案内してくれた親子と、一晩だけ同室だったフランス人に別れを告げて、僕は、まだ1日の始まりを迎えて間もない、静かな町の石畳を、ゆっくりと、だけれど、しっかり歩き始めた。

クスコでは、久しぶりに日本人宿に泊まろうと考えていた。クスコやマチュピチュはもちろん、何より、これから先に訪れるであろう国々の情報が欲しかったのだ。別に日本が恋しくなったとか、ホームシックになったというわけではないと自分では思っていたのだけど、宿に着いて、久しぶりに生の日本語を聞いて、共有スペースの本棚に敷き詰められた日本語の小説や漫画をパラパラとめくった時に感じた、腹の底から大きなため息をついたような妙な感覚。

それこそが、日本を恋しいと思っている証拠だった。

そして、やはりクスコは、美しい場所だった。標高が高いために、蒼くて近い空は、いつでも澄んで清々としていたし、家々の外壁は、昼間の強い日差しに映える白、屋根はエンジで統一され、まるで迷路のような小道が幾つも連なり、時折その向こうに遠くの山々が姿を見せる。おそらく、このように入り組んだ小道が多いのは、インカ帝国時代の名残なのだろう。石畳の道が、かつての繁栄を顕著に物語っている。かと思えば、中心地の広場には、スペイン様式の美しい教会が威厳を放つ。日に焼けたのか、元からなのか、そのレンガのような赤茶けた外壁は、この町の雰囲気にぴったりとはまっていて、蒼い空とのコントラストは、ため息が出るほど美しかった。

宿からその広場を突っ切ってしばらく歩くと、大きな市場があった。そこには、あらゆる物が売られており、肉、野菜、果物に始まり、簡易的な食堂や雑貨、服、よく分からない薬の類。。。およそ、クスコにあるすべての物が、この市場に集結しているようだった。そして、多くの店で店番を任されていたのが、インディヘナの老婆だった。概ね恰幅の良い彼女達は、長い黒髪を三つ編みに編み込んで、仏頂面で店の脇に腰掛けているのが常で、物の値段を尋ねると、不機嫌そうな声で、数字のみを二回繰り返す。元々買う気などないので、店を去ろうとすると、こちらには目もくれず、さっきと同じように不機嫌な声で、チャオと二回繰り返すが、依然として微動だにしない。

老婆の顔に刻まれたシワをとともに、その堂々とした様子が、今でも脳裏に焼きつている。

そして、日が暮れるにつれて、町は徐々に華やかさを増していく。レストランには黄色い明かりが灯り、食事を楽しむ人々の姿も、心なしか、昼間よりも優雅に見える。広場と教会はライトアップされ、昼間の威厳ある姿から打って変わり、妖しさと艶やかさを感じる。そして、クスコにはカジノがあるのだけど、これもまた、空が暗くなるのと比例するように、夕刻から、徐々に人々を飲み込み始める。中に入るまでは、てっきり外国人観光客だけのものだと思っていたけれど、このカジノは、どうやらそうではないらしく、多くの現地人と思しき人々も一夜の勝負に身を投じていた。何をするわけでもなく店内を流していると、ふと、僕の前を民族衣装姿のインディヘナが横切った。よく見ると、手にはクシャクシャの小額紙幣が数枚握られている。どうやら、庶民の生活の中に、カジノもしくはギャンブルが当たり前に存在しているらしい。そうだと分かると、不思議とギャンブルが健全なことのように思えてくる。

宿に帰る途中、数人の若者が、マリファナを買わないかと付きまとってくる。断ってもキリがないので、喉に手を当てて咳き込みながら、実は病気なんだと嘯くと、諦めたような笑みを浮かべて立ち去っていった。商店で、インカコーラと、クスケーニャというクスコ原産のビールを買って宿に戻る。クスコの名前を冠したこのビールのラベルには、当然のことながらマチュピチュが描かれていて、トウモロコシのような自然な甘さの際立つ柔らかい味にトロンとなる。ほろ酔いの頭の中で、そうだ、マチュピチュだ。と思い出したように呟いた。そう、そのために僕はクスコへ来たのだった。

そう思うと、実際に行動に移すのは早いもので、同じ宿に泊まっていた人が、ちょうど同じタイミングでマチュピチュに行くというので、僕も付いて行くことにした。クスコは、マチュピチュへの玄関口と言われているが、実際は、列車でマチュピチュ村まで行き、そこに宿を取って、数日かけてマチュピチュ観光を楽しむというが主流のようだった。まだ日も昇っていない朝早く、僕達は、マチュピチュ村を目指し、宿を後にした。

マチュピチュ村へと向かうその列車というのが、ほぼ観光客専用と言っても過言のないようなものであった。村まで直通の整備されたレールに、清潔な車内は快適で、途中、何回かあった休憩では、列車が停車するのをレールの脇で待ち構えていたインディヘナ達が、楽器を演奏したり、土産物の屋台を開いたりしていた。その、あからさまな歓迎に疲弊しながらも、辿り着いたマチュピチュ村は、ここもまた、クスコ同様に味わい深い場所であった。例えるならば、古き良き温泉郷のような雰囲気すら感じる、こじんまりとしたこの村は、当然のことながら観光地化されていて、村というよりは町という感じだ。昼間は線路沿いとその周辺に観光客向けの市場が開かれ、土産物を中心とした品揃えの中には、嘘か本当か、アルパカの毛で作られたというマフラーなどもあり、店から店へと見て歩くだけでも十分に楽しめた。

レストランも多く、これだけ観光地化されているにもかかわらず、どこか垢抜けない雰囲気は、ここ南米特有の「緩さ」のせいだろう。市場で店番をしている老婆の中には、小さな椅子にちょこんと腰掛けて、うつむき加減の首を、上下にカクンカクンとスイングさせて居眠りしている者さえいたし、マチュピチュという、これ以上ない商業的資源があるにもかかわらず、レストランやホテルの客引きも、市場の店番も、ガツガツとした素振りは見せず、まるで、「お前達観光客が来ても来なくても、私たちの生活は何一つ変わらないよ」という、気高さに似たようなものすら感じた。そして、そんな雰囲気が心地よかった。

村全体に、人工的な灯りがともり始めた頃、坂道沿いに何軒か続いている、オープンテラスのレストランの一軒で、ピスコというブドウが原料の蒸留酒を、卵白とレモンやライムのジュースで割ったピスコサワーを飲みながら、空に星が瞬きはじめるを待っていると、なんだかもうマチュピチュに行かなくても、ここに数日滞在するだけで満足なんじゃないかという気持ちに襲われてくる。荷物をクスコの宿に置いてきてしまったのを後悔した。元々、マチュピチュ村には2泊の予定だったので、メインの荷物をクスコの宿に預けて、必要最小限の荷物でマチュピチュ村へやってきたのだ。1週間位、ここにいたいと率直に思った。

翌日の朝早く、僕達は眠い目を擦りながら、ベッドから飛び起きた。マチュピチュ行きのシャトルバスは、まだ夜も明けきらない早朝発なので、いつにもなく早起きだったのだ。宿から歩いてすぐ近くのバス乗り場へ行くと、すでに多くの人々が列をつくっていた。標高が高いので、日中、陽が出ている時は半袖でもいい位なのだけど、朝晩は季節が変わったかのように冷え込む。寒い中、暖かいコーヒーを飲んで眠気を覚ましながら、僕らもその列に加わった。シャトルバスは、短い間隔でかなりの本数が運行しており、程なくして車内に入った僕達を乗せて、バスは、ゆっくりとクネクネした山道を駆け登っていく。カーブを曲がる度に、高度が上がっていくのが分かる。時折、遠くの視界が開け、マチュピチュらしき建造物が姿を見せるけれど、すぐの他の山々に遮られる。それを何回か繰り返すうちに、時折垣間見えるその建造物が、マチュピチュであることを確認できる程に大きく視界に飛び込んできたのとほぼ同時に、バスは、山の中腹の大きく開けたスペースにゆっくりと停車した。

着いた。マチュピチュだ。バスを降りた僕達は、マチュピチュへ入場するための、大きく立派なエントランスを前にして、またしても長蛇の列に加わる必要があった。列に並んでいる時というのは、不思議なもので、その時間が長ければ長いほど、比例するように胸の内の期待が高まっていく。そうやって、徐々に期待という大きな実を、胸の中で熟成させた僕達は、朝の光がようやく頭上に姿を現した頃、とうとうマチュピチュへと足を踏み入れた。舗装された山道をしばらく歩き、その広大な遺跡群を目にした時、その全景は、今まで何度も教科書や写真で目にしてきたそれと全くと言っていい程同じであった。

四方を山々に囲まれ、しかし、遺跡のあるこの場所だけが、まるで魔法でもかけられたかのように、古代の町を形成していた。その周囲とあまりに違い過ぎる景色は、それこそ神か悪魔の仕業に思えてくる。長らく遺跡観光から遠ざかっていた僕だけれど、すぐにその感覚を取り戻した。ゆっくりと遺跡群を周り、その一つ一つをじっくりと鑑賞していく。無数の岩が、まるでジグソーパズルのようにピタッとはめ込まれた外壁に、片手の平を当てて目を閉じると、言い表せない高揚感が、体の奥の方からじんわりと滲み出てくるようだった。

遺跡内には、緑の芝が敷き詰められたスペースが段々畑のようなっている箇所があって、そこでは、数匹のアルパカが、芝を食べたり、ゆったり散歩したりしている。その横で、上着を脱いで寝転んで目を閉じると、頭上から降り注ぐ太陽光線が、瞼の裏側をぼやけたオレンジ色に染めていく。薄れゆく意識の中で、悠久の歴史、インカ帝国の繁栄に想いを馳せて、全身で失われた時間を感じる。それは、生涯最高の昼寝だった。

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