アンコールワットとモノの価値 - Cambodia vol.1 -
- Ryusuke Nomura
- 2012年5月1日
- 読了時間: 4分

バンコクでデモを見た僕は、もうここで見るべきものは、すべて見てしまった感があった。あるいは、無理矢理にでもそう思わなければ、ずっとここにいてしまいそうな気がして、そう思うように気持ちを操作したのかもしれない。そして、色々と考えた末に、次は、カンボジアに行くことにした。多くの人がそうであるように、この時点での僕のカンボジアに対するイメージは、貧困という言葉そのものだった。それが一体どのようなものかを見る必要があると思ったし、今回、東南アジアを旅するにあたって、避けては通れない国だとも思っていた。「貧しさとは何か」それが物質的なものなのか、精神的なものなのか、その答えというか、概念のようなものを知れるような気がして、カンボジアに足を向けることにした。
そもそも、貧しさという言葉の持つマイナスのイメージを、心のどこかで否定したい自分がいたのかもしれない。貧しさという言葉を耳にした時に、その言葉の守備範囲は、あまりも広大かつ曖昧で、正しく定義されているとは言いがたい。どこからが貧しくて、どこからが豊かなのか、何が貧しさで、何が豊かさなのか。貧しさと豊かさ。人間が生活をするにあたって、これほど重要だと言われながら、曖昧さに満ちている言葉も、そうはないだろう。
そんな、考えても考えても、永久に出口のない迷路のような問題を頭の片隅で反すうしながら、バスでタイからカンボジアへと向かった。まず目指したのは、アンコールワットのある街・シェムリアップ。
前述したような、頭の痛くなる問題を考えながらも、やはり、カンボジアに来たということで、これもまた、避けては通れないであろう、この国が世界に誇る世界遺産であるアンコールワットに足が向かうのは必然だった。ポルポト政権による、国民の大量虐殺が起こるずっと以前、かつてこの地域で栄えた、クメール文明を象徴する大遺跡だ。
今回の旅で、「遺跡」というものを見るのは、これが初めてだった。それぞれの国の「今」を見て、自分がどう感じるのかということを、テーマとして掲げたことはなかったが、自ずとそうしている自分がいて、「遺跡」といった「過去」を象徴するものを、どこかで避けている節があった。しかし、アンコールワットは、そんな感情を超越してしまう程の、圧倒的なネームバリューと、自分の頭の中で誇大化されたイメージとで、「今」の僕が、違和感なく「過去」の産物である、アンコールワットを受け入れた。
日本では、アンコールワットばかりがクローズアップされがちだが、アンコール・ワットというのは、アンコール遺跡という、広大な敷地の一部分にある遺跡の名称だ。連日、世界各国からの観光客で賑わい、カンボジアの外貨獲得の大部分を占めていると思われる。カンボジアの国旗の中心にも描かれていることから、国民の誇りであろうこの遺跡が、まるで売り物にされているかの現状を、カンボジア人はどう思っているのだろう。
しかし、そうは言っても、どんな背景があろうと、良いものは良く、美しいものは美しい。たとえ、アンコールワットを取り巻く現状が、お金にまみれたビジネスになろうとも、その遺跡自体が持つ本来の価値は何も変わらず、堂々とそこに佇んでいた。モノの価値を決めようとする時に、多くの場合、そのモノを取り巻く現状や背景に目がいってしまいがちで、純粋にモノの価値を見極めることは、なかなかに難しい。僕がアンコールワットに訪れた最初の理由も、そのネームバリューとイメージからだった。
しかし、このアンコール・ワットのように、取り巻きの現状や背景よりも、モノ自体の輝きが上回っている場合には、実物を見さえすれば、割とたやすく正常な判断ができるということがわかった。そして、そんな良いモノを求め、人々が集まるのは必然で、ということは、多くの人が、何気なくモノの価値を見極める力を、潜在的に持っているということになる。自分も、常にそうでありたいと思いながら、カンボジアの旅が始まった。
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