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過去と現在1 - Cambodia vol.2 -


カンボジアでの日常、町の空気、食事。そのどれもが今までの国とは異なっていた。とりわけ、食事については、特に苦労しそうな印象を受けた。隣国のタイ料理は、スパイシーで香辛料がキツイけれど、その分、それぞれの味がはっきりとしていて、食べていて口の中で様々な発見があり、食事の度に楽しかった記憶がある。それとは対照的に、カンボジア料理は、何を食べても味がはっきりとせず、主張がないというか、ぼんやりとした印象で、同時に、この国に対する未知の部分を表しているようにも感じられた。

日本にいると良く聞く、カンボジアの漠然とした「貧しさ」。それは、この国の歴史とともに語られることがほとんどで、しかし、それは、「過去」の話であり、僕らの持つカンボジアのイメージは、そのまま、この国の「現在」とは直結しないはずだ。僕はそう信じたかった。「現在」が、今がどうなっているのか。それを感じたかった。

カンボジアと聞いて、まず最初に思い浮かべるもの。それは、多くの場合、地雷だろう。実際、町中には、片手片足のない人が、物乞いをしている姿をよく見かけた。確定はできないが、かなりの確率で、地雷の被害によるものだろう。これらの地雷のほとんどは、社会主義を掲げ、かつて、このカンボジアを恐怖政治によって掌握していたポルポト政権が、自国民が国外へ脱出できないように、カンボジア各地に埋めこんだものだと言われている。この地雷、もう過去の話だとばかり思っていたが、その被害は、ポルポト政権時よりも、現在の方が多いという。実際、ポルポト政権時は、多くの国民が各地で強制的に農業に従事させられ、土地間の移動がほぼ不可能だったため、地雷の被害に合うことは少なかった。国民を自国に閉じ込めておくための手段として、地雷はあまり機能していなかったものの、徹底した管理政策により、本来の目的は達成されていたわけだ。

やがてポルポトが失脚し、カンボジアの人たちは、貧しいながらも、自分たちの田や畑を持つようになった。今まで縛り付けられていた鎖から解放され、国民には、「とりあえず」の自由が与えられた。当然、土地間の移動も自由になる。そうなった時に初めて、本格的に地雷の恐怖が襲いかかることとなった。与えられた田や畑に地雷があったとしても、生活のために、それらを耕さざるをえない。初期段階においては、そこに地雷があるのかないのかさえも分からない。そんな状況の中、被害は増えていったという。自由を得たことによる代償は、あまりにも大き過ぎた。

しかし、どんな状況においても、自由とは何物にも代え難きものであるべきはずで、だからこそ、どんな境遇に置かれ、どんな立場にあろうとも、自由という言葉に、思い思いの美しい光景や理想を思い浮かべる。その輝かしいイメージこそが、自由という真実であり、カンボジアにおける自由が、いつの日か、真の自由となるように。そう願わずにいられない。

次に僕が向かったのは、カンボジアの首都・プノンペン。ここに行く理由は、ポルポト政権時の、悲惨な記憶を見るためだ。プノンペンには、かつての政治犯(という名の一般人)処刑場と収容所を改築したミュージアムがある。その無惨な「過去」から時は流れ、「現在」。それらの過去が、どのように、カンボジアの日常の中で受け止められているのか。そして、カンボジアに生きるクメール人たちは、本当に貧しいのか。たとえ、明確な答えは分からなくとも、自分の中で判断をしたくて、その材料を得るために、プノンペンに向かった。

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