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革命の匂い2 - Nicaragua vol.2 -


短い滞在予定の中、わざわざマナグアからレオンへ行ったのは、この街がサンディニスタ革命において、重要な意味合いを持っていたからだ。革命の首都――しばしば、レオンはこのような呼び名で呼ばれている。革命当時から現在に至るまで、サンディニスタ解放戦線(FSLN)の本拠地になっており、まさにその呼び名に相応しい街である。

マナグアの中心地から、ワゴンを改造したようなバスにギュウギュウ詰めにされて、荒れた田舎道をひた走る。発展途上国の中米地域においても、大きな都市間や国境をまたぐ移動の際に乗るバスは、TICAバス社に代表されるように、かなり良質で、日本のそれと比べても遜色ない。もちろん、この国に新幹線などあるはずもなく、長距離バスの文化が根付いている証拠なのだろう。それに引き換え、短い距離を移動するバスは、コレクティーボと呼ばれる前述したようなバスが多い。しかも、その多くは乗客が満員にならないと出発しないので、発車時刻などあってないようなものだ。当然、それに文句を言う人は誰もいない。

僕の隣には、ニカラグア人(おそらく)の若者が座った。顔の半分をも覆い隠す勢いのサングラスをかけていて、見た所まだ10代だろうか。彼もレオンまで行くと言っていたから、彼が降りるタイミングで一緒に降りれば大丈夫だと安心した。隣の若者とお互いの行き先以外に言葉を交わすことはなかったが、変に話しかけてこない分、良識ある人物に思えた。もしかすると、ものすごく優秀な大学に通う学生なのかもしれない。バスは、あちこちで停車しては、人が降り、また新しい人が乗車してくる。停車する場所のどれもが、一見、停留所とは分からないような普通の道ばたで、まさに庶民の足として生活に根付いている印象だ。

バスが、市場に併設された粗末な駐車場に停車すると、ここがレオンだと隣の若者が教えてくれた。降りると、物売りや、バスの勧誘、両替商がそこかしこにひしめいており、その熱気に圧倒される。同じバスに乗っていた人の流れがみな同じ方向だったので、それに付いて歩いて行くと、数分で大きな公園とカテドラルが見えてきた。きっと、ここが町の中心なのだろう。町の中心には、必ず公園と教会がある。そして、その周りには、宿泊施設や食堂、スーパーや商店など、おおよそ旅行者に必要なものが揃っている。スペインの植民地であった町の画一的な構造だ。

公園内には、軽食を売る店や土産物の雑貨や工芸品、または葉巻を売る店がテントを立てて営業していた。葉巻と言えばキューバが有名だが、それはニカラグアにおいても特産品であるらしく、様々な太さ、色形のものが並んでいた。値段も手頃だったので、その中からニカラグア人の肌色に良く似た、チョコレート色の葉巻を選んで二本買った。革命といえばチェ・ゲバラ。ゲバラといえばベレー帽に葉巻。革命ある所に葉巻ありではないけれど、葉巻に革命とくれば、どうしてもゲバラを連想してしまう。

レオンは、昼間でも人通りが少なく殺伐とした雰囲気のマナグアとは違い、道々には人々と物売りが行き交っていた。マナグアに比べて街の規模は小さいながらも、さながら昭和のアーケード街のような健全な活気があり、加えて、街全体に家庭的な優しさも感じられた。それは、ある商店でコーラを買った時に、おつりを貰うのを忘れて立ち去ろうとした僕を呼び止めた際に若い店員が見せた、心からと思われる満面の笑みや、道ばたの両替商からUS$をニカラグアの通貨であるコルドバに両替した時に、気さくに仕事と関係ないことを話かけてくる親父(個人両替商は、違法だからか、もしくは金を扱う商売ゆえか、気さくな人物には今まで会ったことがなかった)といった一般人と接することで、より確信的なものとなった。

町のいたる壁には、革命に関する壁画が描かれている。この壁画群はレオン市街の名物でもあるらしく、革命当時の市街戦を描いたもの、革命の指導者を描いたもの、内戦中のプロパガンダのようなものまで様々で、中にはチェ・ゲバラの姿もあった。手書きのラフさと、描いている対象のシリアスさが、アンバランスのようで妙に調和がとれていて、なんとも生々しかったのを覚えている。まるで命を吹き込まれたような壁画たちの間をすり抜けて、僕は、英雄記念館と呼ばれる、革命の博物館へ向かった。

記念館と言っても、それは粗末な造りであり、普通の民家と見間違うような自然さで、家々の間に佇んでいた。地図がなければ絶対に分からなかったであろう入口をくぐると、そこには受付などはなく、入って右側の大きなパネルの両面に、白黒の証明写真のようなものが大量に並んでいた。軍服を着崩してフレームに収まっているその多くは、まだ幼さの残る少年達で、中には、はにかんだ笑顔でフレームに収まっている者もいた。そのパネルは数枚が隣り合わせに陳列されていて、多くの少年達の写真が飾られていること、そして、その全てが死者であることとの共通点から、どことなくカンボジアのトゥールスレン博物館を連想させる。

しかし、この二つは違うのだ。根本的に違うのだ。一方は、他者の意思によって、強制的に殺された者達。もう一方は、自らの意思で、革命という大義のために散っていった者達。だから、ここ英雄記念館には、トゥールスレン博物館で感じたような、血なまぐさい殺戮の嫌悪感や、悲壮感を感じることはなかった。この写真が飾られている部屋のすぐ横で、数人の中年女性が、お茶を飲みながら、プラスティック製の椅子に腰掛けて陽気におしゃべりを楽しんでいた。皆、丸々と太っている。その光景も相まって、なんだか飄々とした雰囲気が博物館全体に流れていた。

兵士の顔写真の他は、革命の年表が壁に貼られていたり、木製の粗末なショーケースに、戦闘の様子や兵器のミニチュア模型のようなものが飾られていたりした。見た目も普通の民家なら、中身もまた、それと似たようなもので、古いアパートメントの部屋間の壁と家具一式を取っ払った所に、無理矢理博物館を造ってしまったかのようだ。日本の美術館や博物館を訪れた際に感じる、静粛も閉塞感もなく、ちょっと買い物をしに近くの店まで来てみたような、気軽さすら感じてしまう。だから、多くの犠牲者を伴った、偉大な市民革命の博物館にも関わらず、なんとみすぼらしいのだろうと思わないこともない。物事の本質は外面ではなく、その内面にあるはずだとは分かっていても、日本で「綺麗」な施設を見慣れてきた僕には、もう少しなんとかならないものかと感じてしまう。しかし、レオン市民にとって革命は、僕たちが思っているよりもずっと、身近なものだという証拠なのかもしれない。毎朝、歯を磨くように、煙草の煙をくゆらせるように。

案外、ここまで敷居を低くしてしまった方が、重大な事実が、後世に渡って「自然に」語り継がれていくのだろう。美術だ芸術だと仰々しく構えたところで、それが一般市民に還元されなければ、その意味を成しているとは言えないはずだ。僕はそう思う。そういった観点で言えば、この英雄記念館は、一見みすぼらしいが、ある意味で完成された博物館なのではないか。人民が本当に必要な知識や経験を得るために、重い扉を開ける必要はない。

一通り町を散策して、カテドラルと公園のある町の中心地に戻ってきた。夕凪が、うだるような暑さを多少なりとも和らげてくれる。遠くで風になびくFSLNの赤と黒の旗を眺めながら、(この日は何かの記念日だったのか、FSLNの旗を掲げて行進する集団を何度か目にした)公園のベンチに腰掛けて一息ついていると、7~8人の女学生が、大きな声で歌を歌いながら公園内に入ってきた。見た目から察するに、高校生くらいだろうか。色艶の良い健康的で美しい肌と、颯爽となびく暗めの長い髪が、夕日を反射して眩しく見える。何がそんなに楽しいのか分からないが、あっけらかんとした、ひどく陽気な歌声だった。

「美なく、詩なく、真の革命は存在しない。美と詩はひとつのメダルの表裏である。」

アルゼンチン生まれの作家フリオ・コルタサルは、革命後のニカラグアに幾度となく赴き、当時の実情や自らの思いをを綴った著書『かくも激しく甘きニカラグア』の中でこう言っている。

その言葉を真実とするならば、この日のレオンには詩(歌)も美も、ごく自然に、当たり前のように、夕暮れの中に存在していた。彼女達の歌声が、ニカラグアが長い受難の時代を乗り越えて、自由という名のメダルを獲得したことを高らかに宣言しているのならば、今度は、そのメダルの表裏(美と詩)が、今よりもっと綺麗に磨かれていくことを願わずにはいられない。

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