top of page

朝もやと新しい国 - Ecuador vol.1 -


エクアドルまでの道すがら、途中でバスを二回乗り換えた。メデジンからエクアドルの国境へ行くには、山をいくつも越えなくてはならないらしく、曲がりくねった山道を、バスは猛スピードで駆け抜ける。カーブに刺しかかる度、僕の体は振り子のように左右に揺れて、途中で何度も気分が悪くなった。睡魔と胸のむかつきが体の中で葛藤していたけれど、やがて睡魔が勝ったようで、車窓からの景色が、夕刻の橙色から群青色へと変わり、そして、それがやがて真っ黒になった頃、僕は深い眠りに落ちた。人間の三大欲求恐るべし。

「カムチャッカの若者がきりんの夢をみているとき メキシコの娘は朝もやの中でバスを待っている ニューヨークの少女がほほえみながら寝返りをうつとき ローマの少年は柱頭を染める朝陽にウインクする この地球ではいつもどこかで朝がはじまっている ぼくらは朝をリレーするのだ 経度から経度へと そうしていわば交代で地球を守る 寝る前のひととき耳をすますとどこか遠くで目覚まし時計のベルがなってる それはあなたの送った朝を 誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ」

今でも、エクアドルに入った時のことに思いを馳せると、「朝のリレー」という詩の冒頭を思い出す。たしか、中学校に入学して、一番最初の国語の授業で習った作品だったと思う。当時の国語教師に暗記させられたので、今でもしっかりと文面を覚えている。カムチャッカ半島がどこにあるかも、メキシコがどんな場所なのかも、中学生になりたての僕には分からなかったけれど、初めて聞く国や都市の名前に、「ああ、世界って広いんだな」と、ワクワクしたのを覚えている。思えばこの時、自分が日本人であるということを、子供ながらに自覚したのかもしれない。

国境を抜ける頃には、夜が明けていて、夕方だか朝だか分からない薄暗い景色を車窓からボンヤリと眺めていた。しばらくすると、バスは小さな町に入ったようで、朝もやの中に、民家や商店が姿を現わす。決して綺麗な風景ではない。きっと、貧しい地域なのだろう。家々の外壁が茶色く黄ばんでいたり、道路は土がむき出しになっている部分もある。そんな風景の中を、一人の浅黒い肌をした少女が、足早に通り過ぎていくのが見えた。おそらく、学校に行く途中なのだろう。少女は、ジャージ姿にリュックを背負い、長く伸びた黒髪を颯爽となびかせながら、朝もやの中へと消えていった。その時、「朝のリレー」の冒頭のフレーズを思い出したのだ。朝もやと少女。新しい国の新しい朝。これが、僕とエクアドルという国との出会いだった。

このエクアドルという国に、特別な何かを期待していたわけではない。コロンビアならコーヒー、ペルーならマチュピチュ、アルゼンチンならタンゴとサッカー。恐ろしくステレオタイプな見方だけれど、南米大陸のそれぞれの国には、大まかなイメージというものがあった。しかし、ことエクアドルに関しては、そういったものが全くなかったのだ。「エクアドル」いうのはスペイン語で「赤道」を意味していて、まさにその赤道が通っている国で、記念碑などもあるらしいが、さして興味をそそられなかった。また、入国してから知ったのだけれど、生態系の宝庫として知られるガラパゴス諸島も、実はエクアドルの領土らしいが、そちらもさして興味がなかった。動物園などもそうなのだけど、「動物を鑑賞する」という行為にあまり魅力を感じないのだ。そう、つまりエクアドルは僕にとって、南米大陸を南下していく上での通過点に過ぎなかったのだ。

だから、国境を抜けると、一気に首都であるキトに直行した。もちろん、予備知識はほとんどなかった。ただ、そうは言っても一国の首都。観光する場所はいくらでもある。ある日、前述した赤道の記念碑が市外にあるというので、ナカムラさんたちと、バスを乗り継いで見に行ったことがあった。郊外の広々とした場所にその記念碑はあり、空が広く、近く感じた。

赤道が通っている場所に赤いラインが引かれていて、石でできた大きな台形の台座の上に、地球を模した球体が堂々と掲げられている。当然ながら観光客も多く、赤道の赤いラインを跨いで北半球と南半球を文字通り股にかけたり、記念撮影に精を出している。「すごいな」とは思ったけれど、不思議と感動はしなかった。僕が、緯度や経度といった地理的な知識に乏しかったこともあるだろうし、地球を北と南で分けているこの赤い線に、特別な意味を感じなかった。

キトは、首都なだけあって、当たり前だけれど、規模の大きな街だった。そして、ひどく乾いていた。実際に、標高は2850メートルの所に位置している。しかし、それほど息苦しさを感じることはなかった。この乾いているという表現は、実際に感じた空気感もそうなのだけど、僕の中の印象として、心を打つものがなかったことを意味している。世界遺産に認定されている旧市街や、その中にあるパシリカ教会にも足を運んだ。パシリカ教会は、その規模、造りの繊細さ共に、今まで見てきたどんな教会よりも素晴らしかったし、また、しっかりと手入れされているようで、とても綺麗に保たれていた。旧市街の中心地である独立広場を中心に、四方をコロニアル調の家々や建造物、教会で整えられた街並みは、確かにに趣を感じさせる。しかし、しかしなのだ。なぜだか、胸を打つような瑞々しさを感じることができない。旧市街は、夜間は治安が良ろしくない地域で、どこか影を落とした印象を僕に抱かせたのもあるだろう。今思えば、メデジンからの計20数時間にも及ぶ移動の疲れが、僕の感性を鈍らせていたのかもしれない。だから、旧市街を一望できるパネージョの丘にも登らなかったし、この街に長居する気にもなれなかった。

それだから、数日間滞在したのち、すぐに次の場所へ移動することにした。キトから南へ約3時間。目指したのは、バーニョスという温泉で有名な小さな観光地だった。僕たちは、いつものように、長距離バスに乗って移動した。バスが出発してしばらくは疲れて寝ていたのだけれど、ふと目を覚まして窓の外を見ると、濃い青と茶色のコントラストが目に飛び込んできた。空は雲がほとんどなく、青々しくて青というより群青色に近かった。遠くに赤茶けてゴツゴツとした山々が連なっている。気が付くと僕の隣には、インディヘナの少女が座っていた。今まで通過してきた国々でもインディヘナは見かけたが、国によって纏っている衣装も異なり、少女のそれは、車窓から見える景色のように原色を多用していて、今まで僕が見た中でも、一番の派手さに思えた。彼女の手には、小さな携帯電話が握られていて、アンデスの原住民の少女でも携帯電話を持つ時代なのかと驚いていると、少女の携帯電話が、ピピピッと音を立てた。どうやら、メールを受信したらしい。恋人からなのか友人からなのか分からないけれど、その届いたメールを読んでいる時の、彼女の嬉しそうな表情を未だに忘れることがでいない。メールを読みながら微笑んでいる人なんて、日本じゃなかなか見ることができないだろう。しばらくすると、その少女は、バス停も住居も何もない一本道の真ん中で下車し、山の方へ小走りで駆けて行った。こんな光景を目にする度に、知らない誰かの日常に触れる度に「ああ、旅をしているんだな」と思う。

さて、バーニョスに着いた。さすがはエクアドル人に人気の観光地だけあって、安宿やゲストハウスは町の規模に対して供給過多な位あった。それでも、週末は国内から家族連れや学生が大挙して押し寄せるため、運が悪ければ、宿を求めて町の短いメインストリートを何往復もする羽目になることもあるという。僕たちが着いたのは幸いにも火曜日だったので、その最悪の事態は免れた。当たり前だけれど、日本以外で温泉に浸かるのは初めてだった。もっとも、ここバーニョスの温泉は、どちらかというと温水プールのような感じで、だから、もちろん男女混合で水着着用だ。「湯に浸かる」という文化のない人々にとっては、それでも新鮮なのだろうけど、日常的に風呂に入る習慣のある僕たちには、バーニョスのそれに新鮮さを感じることはできず、しかし、ぬるま湯に浸かって物珍しそうにはしゃいだり、恋人同士で寄り添うエクアドル人を見るのは新鮮で、なんだかホッとした気分になった。

それには、彼らの容姿も関係していたかもしれない。様々な人種が混在していたコロンビアに比べて、エクアドルのそれは画一的だった。道行く人のほとんどが、インディヘナの血が色濃く反映された浅黒い肌で、小柄な体型をしている。顔つきなどが、どことなくネパール人に似ていて、なんだかアジアの小国に迷いこんだような錯覚に陥る。この程度のことに親近感を覚えるなんて、自分はやはりアジア人なんだという思いが、潜在意識の中に刷り込まれているようで、なんだか滑稽に思えた。人種なんていう線引きを無意識の内にしてしまっているなんて!

温泉から出た所で、ナカムラさんが、地元民と思われる老婆と、覚えたてのスペイン語で何やら話していた。ナカムラさんは、老婆にどこから来たのかを聞かれていて、少し誇らしげに「日本から来た。日本を知っていますか?」と言った。当然知っていると思ったのだろう。僕もそう思った。しかし、老婆はまるで当たり前のように、表情一つ変えずに、ピシャリとこう答えた。

「No(ノ)」

その時僕は、その老婆が、とてつもなく自由に思えたのだ。色んなものを日本に置いて、地球の裏側で旅をしている僕たちよりも、遥かに自由に思えのだ。自由というのは、一体何なのだろう。それは物質的なものか、精神的なものか。そんな議論をするまでもなく、考えるまでもなく、その老婆は自由だった。

帰り道、温泉近くの学校の体育館の中から歓声が聞こえてきた。何やら中が騒がしい。気になって覗いてみると、もう夜もいい時間だというのに、大の大人がフットサルの試合をしているではないか。見たところ、両チームの選手の平均年齢は、30台中盤~後半といった具合で、もちろんプロでも何でもなくて、ただの草サッカーだ。そして、先程の歓声の主は、選手達の家族だったのだ。パイプ椅子が並べられた観客席は満員で、直接床に腰掛けている人もいる。そのの中には、小さい子供もいた。ボールの行方が変わる度に歓声がこだまし、同時にため息が漏れる。二つの感情が激しく入り乱れているのを感じられるのが、狭いコートの特権だ。何でもない平日の夜。皆、明日も仕事や学校があるだろうに、男も女も、そして子供も、ボールの行方を夢中で追っている。やはりここは南米だった。

再び帰り道。街灯の少ない夜道を歩きながら、乾いていた僕の心が、旅の魅力で少しずつ潤っていくのを感じていた。

Follow Us
  • Facebook - Black Circle
  • Facebook - Black Circle
Recent Posts
Search By Tags
まだタグはありません。
bottom of page