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東洋の真珠 - Side Story vol.1 -

その日もマニラはひどい暑さだった。灼熱の太陽の放つ熱光線がアスファルトに反射して、そこら中に熱気が充満している。それが、クラクションとジープニーから吐き出される排気ガスと混ざり合うのだから、ひとたまりもない。少し外を歩いただけで身体中から汗が噴き出し、行き交う人の多さと、喧騒にげんなりとする。ファーストフード店やレストランは24時間営業の店が多く、昼も夜も人が途切れることはない。ビーチサンダル越しに、アスファルトにこもった熱を感じる。かつて「東洋の真珠」と呼ばれていたらしいこの街に、当時の面影を見出すことは難しいようだった。

近くのファーストフード店で簡単な朝食を済ませ、宿泊していたゲストハウスをチェックアウトして、僕はタクシーでニノイ・アキノ空港へ向かっていた。マニラ近郊の島へ行くためだ。せっかくの夏休み、ここマニラでは、のんびり過ごすこともままならない。マニラ名物の渋滞に見舞われて、車は全然進まないけれど、タクシーのメーターは、それと反比例にどんどん進んでいく。僕とタクシーの運転手、互いが手持ち無沙汰になると、いつも決まってこう聞かれる。

「フィリピンの女はどうだ? すごくホットだろう?」

ここでいう「ホット」というのは、セクシーだとかビューティフルっていう意味だ。その社交辞令のような問いに、僕は決まって苦笑いをする。そういった目的で日本人がフィリピンに来るということが、市民レベルで知れ渡っているのだ。赤面するしかない。しかし、同時に、彼らから日本の悪口を聞いたこともない。誰もが日本は良い国だと口を揃える。「なぜ?」と聞けば、彼らも答えに詰まるだろう。それはきっと、サンミゲル(フィリピンの国民的ビール)が美味なのと同じようなレベルで、この国では当たり前のことなのだ。

異国の地で慣れない英語を使ってタクシーの運転手と話すのは、その国で、自分の国がどう思われているかの良い判断材料になることが多い。

—彼らは、日本に対してどんなイメージを持っているのか?—

—僕は、その国に対してどんなイメージを持っているのか?—

互いのイメージを交換して、そのギャップを埋めていく。すると、少しだけ、ほんの少しだけ、その国のことを、そこで暮らす人々のことを分かったような気になる。僕にとって、異国でのタクシー車中はそんな場所だ。

渋滞の途切れない下道をやっとのことで抜け出して、タクシーは高速道路に入った。こうなると、さっきまでの渋滞はどこへやら。今までの鬱憤を晴らすかのように、運転手はアクセルを強く踏み込んで、車窓からの景色が流れていく。市内からは、蜘蛛の巣のように張り巡らせられた電線が空を遮っていたけれど、ここからは青と白が大きく見える。空港はもう目と鼻の先だ。

出発は翌日の早朝だった。今夜一晩、空港で夜を越さなければならない。荷物預かり所でバックパックを預けて身軽になると、さてどうやって時間を潰そうかと、空港の無機質な冷たいベンチで一人考え込んだ。しばらく空港内をウロウロしていたけれど、フードコートが数件とブランドショップに両替所の他は、特筆すべきものは何もない。当然だ。だってここは空港なのだから。

太陽が空を茜色に染め、やがて今日の務めを終えて西りはじめるまで、無機質なベンチに腰掛けてじっとしていた。夕凪が微かに涼しさ運んできたところで、空港の大きなゲートから飛び出した。空港近くには高級ホテルやそれに併設されているカジノ、そして、以外にもローカルな町並みが広がっていた。庶民的な食堂から、甘酸っぱい夕食の匂いが漂ってくる。食堂の軒先には、鶏肉や野菜、あるいはバナナのような果物が串焼きにされている。さらに中を覗くと、お世辞にも清潔とはいえない店内は狭く、数人の地元客が食事をしていた。ショーケースに中には作り置きの煮物や揚げ物が並び、その横の大きな寸胴鍋からは、夕食の支度をしている時特有の、ホッとするような匂いが漂ってくる。妙な安心感を覚えながら、歩を進める。マッサージ屋、散髪屋、食堂、雑貨店。およそ、生活に関わるほとんどのものが、この辺り一帯で揃えることができるようだ。というこは、この近辺にも普通に人が住んでいるということらしい。空港のすぐ近くにこんな下町のようなスペースが広がっていることに驚いた。

ふと、散髪屋の前で立ち止まる。別に長髪というわけではなかったけれど、伸びっぱなしになった僕の髪は高温多湿の南国で過ごすには、少々むさ苦しい。街ゆくマニラっ子の多くは、サイドを綺麗に刈り上げたショートスタイルだったし、「郷に入らば郷に従え」そんなフィリピーノ・ショートスタイルに、僕も挑戦してみようと、ふいに思いたったのだ。しかし、僕が見つけた散髪屋は、地元客で賑わっており、満席に加え、順番を待つ客も多くいたので躊躇した。というのは言い訳で、あまりに地元色の強いその店構えに恐れをなしてしまったのだ。しばらく散髪屋の辺りをウロウロしながら、さてどうしようと考えていた。何度目かにその散髪屋の前を通った時、その店の二階にも店があることに気が付いた。しかも、一回の散髪屋とは違い、おしゃれな外観で、看板の一部に「salon」という文字が見える。どうやら美容院のようだ。散髪屋の横にある階段で二階に上がり店内を覗くと、働いている店員もどことなく垢抜けていて、おまけに空いていたので、思い切って入ってみる。赤と白を基調とした店内は照明が眩しくて、さっきまでマニラの下町を歩いていたのが嘘のような明るさだった。

受付で、上半身を赤い制服で揃えている店員に、カットとシャンプーをオーダーすると、すぐに鏡の前へ案内された。先ほどとは違う店員がやってきて、どんな風にしたいのかと聞いてくる。目鼻立ちの整った中性的な男で、少し鼻にかかる甘ったるい声が印象的だった。僕は、「フィリピン人みたいなショートスタイル」にしたいと彼に言った。すると彼は、僕の頭を値踏みするように眺め、両手の指の腹を使って頭の形を確かめた。その後で、少し考える仕草を見せてからこう言った。

「こんな感じのスタイルは好き?」

彼は、両手を自分の頭上で掲げて三角形を作っている。ソフトモヒカンを提案してくるなんて、なんてオシャレな美容師なのだろう。僕は二つ返事でokした。

実際にカットが始まると、僕は少し違和感を覚えた。カットしてくれている店員の仕草が、なんだか少しおかしいのだ。一つ一つの動作が男性のそれではなく、妙に丁寧すぎるというか、どことなく女性らしさを醸し出している。しかし、いくら顔が整っているとは言っても、彼は間違いなく男性のはずだった。これはひょっとすると……その瞬間、彼の口から衝撃的な言葉が発せられた。

「あなた、ゲイは好き?」

やっぱりそうか。予想はしていたけれど、驚きを隠すことができなかった。僕は、「女性にだけ興味がある」ことを、シンプルに、できるだけ嫌味にならないよう彼に伝えた。すると、それ以降は、その類の話は一切しなくなった。もしかすると、最初に自分がゲイであることをカミングアウトし、相手にその気があるかどうかを確認するのが、彼等の中では暗黙のルールなのかもしれない。

隣でカットされていた50代位の韓国人男性が、「軍人みたいな髪型になった!アーミー、アーミー!」と騒ぎながら、上機嫌で帰っていったことで、客は僕一人になった。カットをされながら色々と話しているうちに、どうやら、この店の従業員は、全員ゲイであるらしいことが分かった。よく見ると、皆うっすらと化粧をしていて、仕草や話し方も女性のそれを意識している。そして、外国人である僕に興味があるようだった。カットもそこそこに、待合用のベンチに腰掛ける。3人いた従業員もみんな仕事をほっぽり出して、雑談会が始まった。それは、優しい雨宿りだった。外は急なスコールに見舞われてしまい、外に出ることを躊躇する僕に、彼等の一人が、

「雨が止むまで店の中にいたらいい」

と声をかけてくれたのだ。

美容院の店員が3人と、隣のマッサージ店で暇をしていた従業員が2人。その中で、純粋な女性は一人だけで、あとはみんなメイクをしたゲイだった。なんとすごい場所に紛れ込んでしまったのだろう。しかし、なぜか、彼等に対して嫌悪感を抱くことはなかった。一度その気はないと伝えてから、その類の話は誰もしてこなかったし、みな一様に親切で明るく、その笑顔に屈託のなさが表れていたからだ。そこには、マイノリティであることの悲壮感は微塵も感じなかったし、もしかすると、この大都市マニラでは、彼等のような性的マイノリティに対して寛容なの面があるのかもしれない。雨足が弱くなってきたので、僕らは店の外の廊下に出た。雨とアスファルトの混じり合った錆のような匂いが、なんだか懐かしかった。

聞くと、彼らはみな20代の前半で、マニラ出身ではなく、田舎の島から出てきたという。あるいは、その特異な性的嗜好から、田舎の島では周りの目が厳しかったのかもしれない。

「フィリピンは初めて?」

「何しに来たの?」

他愛のない質問から、

「日本は中国の一部なの?」

と、聞く人が聞けば危なそうな質問も飛び出した。とにかく好奇心が旺盛で、しかし、やはり心は女性なのだろう。どんなに一方的に質問を浴びせられても、その口調や言葉の響きに女性らしい柔らかさがあって、図々しいと感じることはなかった。彼等の存在に加え、頬を撫でるように優しい夜風、雨が空気中を落下するさざ波のような音とが相まって、だから、この場所はすごく居心地が良かった。手すりに腕をかけて、みんなで話しながら、行き交う人と夜の賑わいを見ていると、なんだか学生時代に戻ったような気持ちになる。あの頃は、何もしないで、ただ仲間と一緒にいるだけで楽しかったっけ。

楽しい時間は、いつだってあっという間に過ぎていく。雨も上がったので、そろそろ空港へ行くことにした。あまりに心地よい時間の流れに忘れかけていたけれど、彼らは仕事の最中なのだ。

「またね」

と言って、不思議なゲイの美容院を後にした。また会えるか分からない「またね」は、寂しいけれど、そう言っておけば、どこかでまた会えるような気がしてくるから不思議だ。 さて、肝心のカットの方はと言うと、長いのか短いのかなんとも言えない長さに切り揃えられた髪を、ワックスで無理やり中央に寄せて、ソフトモヒカンのようにしているだけの残念なものだったけれど、そんなことはもう気にならなかった。

マニラという得体の知れない巨大な街に疲弊しかけていた僕にとって、今回の出会いは、この街にまた来たいと思えるような、素敵なものだった。翌朝、僕は、マニラ近郊の島へ飛んだ。数日間の休暇を終えて日本へ帰る時、徐々に高度を上げていく飛行機の中で、窓の外をぼんやりと眺めていた。ふいに、暗闇の中に、白と黄色の明かりがポツポツと現れはじめた。飛行機がさらに高度を上げるにつれて、徐々に全体像が浮き彫りになってくる。それは、上空から望んだマニラの街だったのだ。暗闇に中に、白と黄色の光が、規則的に並んで輝いている。これが、あの雑然としたマニラなのか。理路整然とした明かりの列は、とてもそうとは思えなかった。実に様々な面があり、全体像が摘めない。その時、僕はこの街の、もう一つの名前を思い出す。 「東洋の真珠」そう、その言葉がしっくりくるほど、上空からのマニラは、暗闇の中で凛とした輝きを放っていた。

僕は、いつかまたマニラに来るだろう。かつて東洋の真珠と呼ばれたこの街に。それが何たるかをこの目で確かめ、理解するために。そこで、真珠のような輝きを、今度は上空からではなく、地に足の着いた状態で、見つけることができれば幸いだ。今回の予期せぬ出会いのように。

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