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近くて遠い場所 - Side Story vol.3 -


台湾に行こうと思ったのは、以前仕事で知り合った台湾人から、台湾人は日本人に対して友好的で、こと女性に関しては美人が多いと聞いたからだ。勤めていた会社が倒産して、たくさんの時間と少しばかりのお金を得た僕は、インターネットで台北行きのLCCチケットを買った。確か、往復で2万円強だったと思う。

なぜだか今まで中華圏の国には、全くと言っていいほど興味が湧かなくて、中国はもちろん香港にも行ったことがなかった。どうしてかと聞かれれれば答えに詰まる。特に理由はないし、だからこそ今回、気持ちが台湾に傾いたこのタイミングを逃しては、この先もう台湾に行けないかもしれない。人は、気持ちが伴わないと行動できない。ましてや、海を超えるのなら尚更だ。 そうして、訪れるべくして訪れた台湾。僕にとっては、近くて遠い場所だった。

旅に出る前、台湾の地図をなんとなく眺めていた。この小さな島の地名はとても分かりやすくて、島の北部に首都である台北、真ん中あたりに台中、東に台東、そして南に台南といった感じに、主要都市は、台湾の「台」に東西南北を付けた地名が多い。単純な上に覚えやすいが、少々面白みに欠ける。当の台湾人はどう思っているのだろうか。もし、何とも思っていないのなら、地名なんていうのはただの飾りみたいなもので、大して意味をなさないのかもしれない。

さて、もちろん僕が飛行機で最初に目指したのは台北だった。島の北部に位置し、名前にも北という文字が付いているけれど、その実、沖縄よりも南に位置しているため、気温はかなり高い。僕が台湾を訪れたのは梅雨の時期だったのだけど、体感的には東京の夏と変わらない位蒸し暑かった。そんな一年中暑い気候のためか、街全体が、夜型になっているように感じた。会社や学校の始まる時間は、日本とさほど変わらないはずなのに、日が傾くに従って、徐々に活気が満ちてくる。その代表的な例が、台北市の様々な場所で催される夜市である。少し気温下がってきた夕方6時あたりから深夜まで、多くの屋台が顔を出す。小籠包や焼売のような軽食から、ポテトフライのようなスナック、フワフワのかき氷、新鮮な果実ジュース、場所によっては安価な衣料品や靴など、出店の種類もごちゃ混ぜだ。色々な場所の夜市に行ってみたけれど、平日だろうと休日だろうと、空いているということはなく、いつもたくさんの人で混雑していた。

シンガポールでもそうだったけれど、中華圏の人々は家で料理をする習慣があまりないらしい。もしくは、家で食事を作るよりも、一歩外に踏み出せば安価で美味しい料理が味わえるのだから、料理するのが馬鹿らしくなってしまうのかもしれない。そう思ってしまうほど、屋台の種類は豊富で、そのどれもが美味しかった。不思議とビールを置いている店が少なく、それだけは滞在中ずっと謎のままだった。暑い国のビールらしくあっさりしている台湾ビールは、絶対夜市のグルメと合うはずなのに。

台湾には、少なくとも僕が街を練り歩いたり、見聞きした中では、東南アジアの繁華街で感じるような、妖艶な雰囲気は皆無だった。台湾で一番の都市である台北の夜でさえ、そのような雰囲気を感じることはなく、どこか危険で艶かしいバンコクの夜とは対照的だ。その健全さが、旅をする身にとってどこか面白みを欠くのは事実で、だから、最初は僕もなんだか物足りなく感じていた。帰りのチケットは3週間後で、それまで台湾での滞在を楽しめるのかと悩み、台湾から安価で行くことのできるフィリピンへの格安チケットを調べていた程だ。ちょうどこの時期の台北は梅雨で、日中に観光らしい観光ができなかったこともある。

しかし、僕はまだ台湾で美女にも出会っていないし、ここで台湾を去ってしまえば、僕の中でこの国の記憶は夜市の屋台以外、空白になってしまう。そうなってしまっては、僕は、もう二度と台湾に来ることないだろう。それもどうかと思った。台湾行きを推してくれた友人にもなんだかバツが悪い。とにかく、台北ではないどこかへ。そうすることで、本来の滞在日数を全うできるかもしれない。

さっそく、台北から東へ鉄道を使って行ってみることにした。目指したのは、太魯閣(タロコ)とい渓谷が有名な花蓮という観光地だ。窓側の席に座った僕は、することもなく窓の外をジーっと眺めていた。眩しい日差しに、畑や田んぼの若草色が反射して、キラキラしている。そんな景色が続いて、なんだか日本の田舎みたいだった。

観光地にしては殺風景な花蓮駅を降りて、宿の場所や町の情報を聞こうと、駅の目の前にあるツーリストインフォメーションに入った。ここでは、小さなカウンターの中で数人の女性スタッフが働いていて、みな十代の後半から二十代の前半といった外見で、揃いのTシャツを着ていた。大学の文化祭を思わせるようなチープで可愛らしいユニフォームだ。僕と同じ電車を降りた観光客がそのままインフォメーションに流れ込んだため、しばらく列の後ろで待たなければならなかった。

僕の番がきて、目の前の女性スタッフに予約していたホステルまでの行き方を尋ねると、しばらく間が空いて、彼女の口から思いがけない言葉が飛び出した

「日本人ですか?」

それがあまりにも自然な日本語だったために、危うく、ここが台湾であることを忘れてしまいそうになった。イントネーションというかアクセントというか、日本人の話す日本語とほぼ同じだったのだ。現地に長く住み、その国の言葉を何年もかけて勉強しても、母国語のアクセントや訛りはどうしても残ってしまう。日本に長く住んでいる外国人を見ても、それは明らかだ。ここまで流暢に日本語を操るというのは、よほど勉学に勤しんだのか、何か他に理由があるのか。

他にも、僕は台湾の様々な場所で、日本語を見聞きすることになる。例えば、夜市の屋台で、中国語のメニューに加え日本語の表記があったり、街中で道を尋ねた時など、ツーリストインフォメーションの彼女ほど流暢とはいかなくても、片言の日本語を話せる人は多かった。なんでも、台湾の大学には、日本語学部というのが結構普通にあるらしく、そこではみっちり4年間、日本語だけを勉強するという。学費が日本に比べて安く、大学進学率が高いとは台湾に在住している友人の弁。

加えて、台湾は1895年から1945年まで日本が統治していたのだけど、台湾の文化をすべて破壊しつくすような支配ではなく、かつ学校建設や交通網の整備などの教育、インフラを整えることに尽力したという。その後、日本が去り、台湾は中国の植民地になる。しかし、その中国統治時代というのが、中国軍からの略奪や暴行、また政治面でも目に見える腐敗が恒常的に起こる悲惨なもので、多くの台湾人にとって負の記憶になっていると同時に、日本統治時代が正当化されている理由らしい。というのが、僕が付け焼刃で身につけた知識。よって、現在でも親日の人が多く、また、そうなるように教育がされているらしい。

当時、僕は台湾で生きていたわけではないので、あくまで想像になるけれど、日本統治時代が台湾人にとって素晴らしかったのではなくて、その後にやってきた中国軍の蛮行によって、過去が美化されている部分が大きいような気がする。教育、インフラ等の目に見える成果はあったのかもしれないけど、あくまでも部外者である「日本人」に統治されていたというのもまた事実。それでも、未だに親日な人が多いというのは、旅する身としては大変ありがたいことだ。特に自分が台湾に対して何かをしたわけではないのだけれど。国籍というものは時に、良くも悪くも特別な効果を発揮する。だから、僕がその国籍によって、台湾で良い思いができたのならば、それは本当に「たまたま」だ。

花蓮も台北と同じように連日の雨で、太魯閣に行くことは叶わなかったけれど、もう少しこの島にいてみようと思った。

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