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プエルト・ロペス2 - Ecuador vol.3 -


海辺を歩くと、乾いた潮風が体中にまとわり付く。西の海に深紅の夕日がゆっくりと飲み込まれて、今日もまた、何もない1日が終わっていく。

太平洋沿いにあるこの町はとても小さくて、漁村か、あるいは港町という表現の方が適切かもしれない。それでも、近年はそれなりに観光客が訪れているようで、高級ホテルなどないものの、安価なゲストハウスやホステルは多く、宿探しに困ることはない。

観光とはいっても、さして何かがあるわけではない。サーファーに人気があるらしい「波」の良い海は、お世辞にも綺麗とは言えないし、遺跡や歴史的な建造物があるわけでもない。あるのは、潮の香りと波の音だけだ。

プエルト・ロペスに着いた最初の晩、バス停で待ち構えていた客引きに連れられるままに宿泊することになった宿は、50代くらいの夫婦が経営している、実にアットホームなホステルだった。自宅を改築して部屋を増やし、無理やり宿にしてしまったような所だったけれど、居心地は悪くなかった。改築して間もないようで清潔だったし、久しぶりに泊まった個室のベッドは大きくてマットレスも効いていた。これで一泊7USドルはかなり安いと思う。

この宿には面白い習慣があって、日が暮れて夕食時になると、寝室とキッチンの間の吹き抜け部分にある大きなテーブルを囲んで、宿を経営している家族と宿泊者で夕食を共にすることだ。食事は、女将さんか、太っちょの高校生の娘が作る。もちろん追加料金はなしで、宿代に込みだ。宿泊を決める際にそんな話は一切出なかったから、最初は少し驚いたけれど、その辺の「緩さ」も居心地の良い要因の一つなのだろう。

場所柄、魚を使った料理がほとんどで、どれも素朴な味わいで美味しかったけれど、僕が一番美味しいと思ったのは、「セビーチェ」と呼ばれる料理で、生魚や玉ねぎなどの野菜をダイス状に切り、酢とレモンで締め、香草で香りを加えた、マリネのようなものだ。元々はペルー発祥らしいけれど、他にもチリやエクアドルなどの太平洋に面した南米各国で食されている料理だ。海が目の鼻の先だけあって、さすがに魚は新鮮で、身が引き締まっている。そのまま食べても、レモンと酢の爽やかな風味が、まるで潮風のように口の中に押し寄せてきて美味なのだけど、これに少し甘いサウザンドレッシングのようなソースを少しかけると、酸味が和らぎコクがプラスされる。それを米と一緒に食べるのが、この辺りの食べ方らしく、それもまた美味だった。

もう一つ、エクアドルには、「プラタノ」という調理用のバナナがあって、硬く甘みの少ないそのバナナは、主にスライスして揚げたり焼いたりして、食事の付け合わせによく用いられる。このプラタノの付け合わせを、宿泊中、僕はぼぼ毎日見ることになった。まだプラタノの存在を知らなかった頃、夕食を支度中の太っちょの娘がバナナを揚げていたので、驚いて、なぜバナナを揚げているのかと尋ねたところ、「違う。これはバナナじゃない、プラタノだ。」と毅然とした態度で一蹴された。おそらく、プラタノは、エクアドル人になくてはならない食材なのであろう。同時に、バナナと似たその食物に並々ならぬこだわりを見せるエクアドル人が、愛おしくも見えた。

特に、何かすることがあるわけではない。朝はゆっくりと起きて、インスタントのコーヒーを飲み、まだ目覚めていない頭を起こすために、ふらふらと散歩に出かける。町の中はすでに潮の香りが充満していて、5分も歩けば目の前に太平洋が広がる。悠然とただそこにあるだけの大きな海を見ていると、自分の心までも大きくなったかのような錯覚を覚える。波の音を片耳に感じながら海岸沿いを歩いて行くと、砂浜の途切れる辺りに数隻の小さな漁船が停泊している。その横では漁師達が、ついさっき捕ってきたばかりの魚を水揚げしていた。すぐ脇にはテント作りの簡易的な食堂があって、そこで獲ったばかりの魚を食べることができる。刺身ではなくて、素揚げのようなものだったけれど、塩でシンプルに味付けされた、マグロに似たその魚は、淡白ながらもしっかりとした味わいで、野性的な強い味がした。そして、ここでも付け合わせは、表面に軽く火を通したプラタノだった。

朝昼兼用の食事を終えると、宿に戻って日記を書く日もあれば、海辺をあてもなくブラブラと歩いたり、カフェでコーヒーを飲んだりすることもあった。宿の太っちょの娘は、普段グアヤキルの高校に通っているらしいが、今は夏休みということで、日がな一日中、吹き抜けの共有スペースでダラダラとインターネットなどをしていた。僕は、時々スーパーでお菓子を買ってきては、それを一緒に食べながら、スペイン語を教えてもらった。グアテマラで2週間ほど語学学校に通った以降は、これといってスペイン語を勉強する機会がなかったからだ。

いや、といよりも、ここまでの旅中は、耳に入る言葉のほぼ全てがスペイン語なのだから、勉強しようと思えば、いつでもできたはずだ。ないのは機会ではなく、気持ちだった。自分の怠け具合にうんざりしながら、それでも、これは目的も何もない気ままな旅なのだからと自分に言い訳をして、小さな町を散歩しに出かける。町のはずれには、フェンスに囲まれたフットサルコート位のサッカー場があって、平日の昼間だというのに、大の大人が必死の形相でボールを追いかけている。草サッカーには違いないのだが、球際も激しく、審判の笛もよく聞こえてきた。フェンス越しに試合を眺めていると、中でプレーしている一人から、一緒にやらないかと声がかかった。僕は、くたびれたビーチサンダルを履いた足元を指差し、苦笑いしながら首を振った。すると相手も、じゃあしょうがないなという顔をした。この時、ビーチサンダルを履いていて良かったと思う。もし、あんな中でプレーしたら、絶対に足手まといだし、怪我することも必至だっただろう。

サッカー観戦を終えて、また歩き始める。町の中心にある広場や教会を通り過ぎて、再び海岸沿いに出ると、太陽が空と雲を橙色に染めながら、今まさに水平線に飲み込まれようとしている。夕暮れの砂浜をピッチにしてサッカーをしている少年達を横目に、僕は急いで近くの商店でビールを買ってくると、砂浜に座り、ボーッとその様を眺める。すると、もうこれ以上何を望めばいいのだろうという気分になってくる。満足感ともどこか違う多幸感が、体の内側から、じわじわと湧き出てくるようだ。

やがて太陽が水平線の中へ完全に飲み込まれると、どこかやきもきした気持ちになる。ラムネ瓶の中に入っている、キラキラと光るビー玉が、どうやっても取り出すことができないのと似たような気持ち。じっと眺めることはできるけれど、決して自分のものにすることはできないとう、もどかしい気持ちだ。夕日もビー玉も、決して自分のものにはならない。ただそこにあるのを、じっと眺めているだけだ。

街灯のない夜の浜辺は、上映前の映画館のように、しんと静まり返っていて、波の大きさは昼間と変わらないはずなのに、その音は何倍にも増して聞こえる。ヒーリングミュージックのような波音を感じながら、浜辺に寝そべると、目の前を覆う闇の中一面に、星が瞬いている。星座に疎い僕は、無数にある星の中から、やっとの思いで北斗七星とオリオン座を探し当てた。あまりにも星が多すぎるので、瞬きをすると、すぐに見つけた星座を見失ってしまう。再びそれらを探し当てることが面倒くさくなって、再び瞼を閉じる。すると、波音が足元の方からどんどん僕の方に近づいてきて、体全体が、波の中でクラゲのように、ゆらゆらと揺れているような気分になってくる。

もうすぐ宿の夕食の時間が迫っていることに気付き、慌てて起き上がると、波の音が一気に遠のいていった。背中と髪の毛についた砂を手で払い落とし、フラフラと宿に向かって歩いていく。そこかしこで、暇を持て余した人々が道端に座り込み、世間話に花を咲かせている。ふと、教会の中から、大きな歌声が聞こえてきた。古びた教会の開け放されているドアから中を覗くと、賛美歌を熱唱する老若男女が席を埋め尽くしている。その歌声は、決して統制がとれているわけではなく、美しくもなかったけれど、素朴で妙に安心感のあるものだった。かつてスペイン人がもたらした十字架は、太平洋沿いの港町でも、いまだ錆びついてはいないようだ。

その歌声に聴き入るのも束の間、時計の針を見て少し慌てると、後ろ髪を引かれる思いで教会を後にする。この間食べたセビーチェは美味しかったな、今日もセビーチェだといいなと思いながら、ボンヤリとした黄色い光を放つ街灯の中、宿へと急いだ。

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